なぜかはわからないがたいした活動はしていない。
http://enjoykorea.naver.co.jp/ の紹介しかしていない。
本来ならばもう少しねたがあるはずなのだが、それは仕方のないことである。
ブログ自体の反響がわからないから、というのもある。
とりあえず今回のネタはおやすみです。
ちなみに、この掲示板のメインは
ヒストリー
時事/ニュース
です。ほかはそれほどでもありません。
なんだか2ちゃんねるに似てますね。
(追加文章)
とりあえずいまこのような文章を見つけたのでここに転載しておく。
なお、内容の真偽は確認されていない。
[copipe] 韓国人の絶対に知らない歴史 [シオニスト]
chun_hoping
1928年
F・D・ルーズベルト、ユダヤ資本を後ろ盾にニューヨーク知事当選.
(ルーズベルトが当選した後、ニューヨークにはロシア系ユダヤ人や共産主義者が大量に流入した。)
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1932年
ルーズベルトがユダヤ人の支持を得て大統領に当選
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1933年 1月30日
ドイツ国民の圧倒的支持を得てヒトラー政権樹立
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1933年 2月11日
米国財務長官ヘンリー・モ―ゲンソー(ユダヤ人)が「アメリカは第二次大戦の局面に加わった」と明言.
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1933年 3月24日
ロンドン・デイリー・エクスプレス(イギリスの新聞)紙上でユダヤがドイツに宣戦布告」。
JUDEA DECLARES WAR ON GERMANY
1933年3月24日 ロンドン・デイリー・エクスプレス
これ以後、ユダヤ人によるドイツ製品の国際的ボイコット運動が展開される。
( この結果1933年のドイツの輸出総額は10%低下し、利益は前年の半分に落ちた. )
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1933年3月27日
アメリカのマジソン・スクエア・ガーデンにてユダヤ人による反ドイツ集会.
シカゴ、ボストン、フィラデルフィア、ボルティモア、クリーヴランドなど70の他の場所で、マジソン・スクエア・ガーデンと同様の抗議集会.
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1933年4月1日
ドイツでユダヤ製品のボイコット運動が行われる。
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1933年4月
ドイツでユダヤ人への迫害がはじまる
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1934年1月
シオニスト指導者のヴラジミール・ジャボチンスキー、ユダヤ人の新聞紙上にて、「われわれユダヤ人の利益を守るためには、ドイツを永久的に滅ぼす必要」と宣言.
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1935年3月6日
ドイツ、再軍備宣言
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1935年
米国最高裁は共産主義政策であるニューディール政策の全国復興庁(NRA)を満場一致で違憲と判決した。
1935年3月7日
米国のヒュ―イ・ロング知事が12日の米国議会記録のためにラジオ放送
(ヒュ―イ・ロングはルーズベルトの誤った考え方や、ニューディール政策で得しているのはユダヤ人だけであることを指摘していた)
1935年3月14日
ニューヨーク・タイムス紙上でルーズベルトは「自分はユダヤ人かもしれない」と主張
1935年7月25日
ドイツ軍からユダヤ人を排除。(しかし実際は15万人のユダヤ人がドイツ軍に所属していた)
1935年9月8日
反ルーズベルト派のヒュ―イ・ロング知事が22口径で狙撃される
1939年4月5日
米国のハルミトン・フィッシュ議員が「ドイツがベルサイユ条約で没収された領地さえ取り戻せれば戦争にはならない。共産主義者がソ連のために、アメリカを日独との戦争へ扇動している」と演説
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1940年10月30日~
ルーズベルトは選挙期間中、何度も「戦争はしない」と演説
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1941年1月27日
ワシントンで、米英参謀本部の秘密戦略会議が始まる。ドイツ打倒優先で合意する。
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1941年5月1日
チャールズ・A・リンドバーグが「政府が戦争を煽っている。戦争で利益を得ているのはユダヤ人」と主張。
リンドバーグの地位を剥奪し収容所に入れる為にルーズベルトはできることをすべて行った。
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1941年8月9日
チャーチルとルーズベルトの大西洋上の会談が始まる。
ルーズベルト「如何にしたら日本が先に、米国に攻撃を仕掛けるかを検討中である」と発言(Royal Public Record Office 大英王立公文書館の資料より)
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1941年8月25日
イギリス・ソ連両軍が、中立国のイランへ侵攻
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1941年9月11日
リンドバーグ、アイオワ州デ・モインで演説。「イギリス人、ユダヤ人、そしてルーズベルト政権が戦争を煽っている」
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1941年9月9日
イギリスとソ連がイランと協定を結び、南部をイギリス、北部をソ連の占領地域とした
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1941年10月8日
ルーズベルトが「(中立国の)ドイツ戦艦および潜水艦は、見つけ次第これを攻撃すべし」と命令を出す。しかしドイツは挑発には乗らなかった。
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1941年 10月8日
米大統領F・D・ルーズベルト、宣戦布告のないままドイツ船舶へ攻撃を命令
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1941年11月
ルーズベルトは極秘命令で日系米国人のリストを作成。真珠湾攻撃以降、このリストによって日系人の逮捕・財産没収作業はスムーズに行われた
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1941年11月26日
米国がハル・ノートで大日本帝国に最後通牒を突きつける
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1941年12月6日
イギリスが、フィンランド、ハンガリー、ルーマニアに宣戦布告する
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1941年12月8日
13:30 日本軍、ハワイ・真珠湾を攻撃(対米開戦)
14:00 在ワシントン日本大使館、「国交断絶通告」をアメリカ側に通達
ただし、1941年の時点では宣戦布告は義務とされていないので、[奇襲=卑怯]は成り立たない。
WW2戦前戦後の戦争を見ても宣戦布告がある戦争の方が稀であることから考えてみれば当然のことなのである。
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1941年12月8日
ルーズベルト「リメンバーパールハーバー」演説
1943年4月12日
カチンの森事件
ロシア郊外スモレンスクにあるカチンの森でドイツ軍がソ連軍に虐殺されたポーランド将兵4321人の死体を発見。
ドイツは連合国、中立国、国際赤十字のジャーナリストや調査官に調査を依頼し、ソ連の戦争犯罪を立証したが、これは連合国によって握りつぶされる。
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1943年8月
ルーズベルト「枢軸国が毒ガスを使う可能性がある」と声明。
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1943年11月
スターリン、チャーチル、ルーズベルトの署名するモスクワ宣言「ポーランド人に対して虐殺行為を行なったドイツ人は…犯罪現場に引き戻されて、その場で裁かれるであろう。」
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1944年1月25日
ルーズベルト、「ナチスの陰謀を阻止すべき」と声明。
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1944年 3月15日
国際赤十字が連合軍の無差別爆撃に抗議
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1944年3月24日
ルーズベルト、「ナチスのユダヤ人虐殺は史上最悪の犯罪である」と声明。
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1944年 9月 3日
アンネ・フランク、アウシュビッツに送られる。
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1944年10月 3日
アンネ・フランク、絶滅刑務所である(はずの)アウシュビッツから生還、ベルゲン・ベルゼンに送られる。
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1945年 1月27日
ソ連軍アウシュビッツ収容所到着。
オットー・フランク(アンネ・フランクの父親)、ソ連軍に救出される。
その日にソ連軍が撮影した写真には健康そうなユダヤ人の囚人が大勢写っている。
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1945年 2月2日
ユダヤ系の記者ボリス・ポレヴォイは、アウシュヴィッツでは数百の囚人がコンベア・ベルトの上で同時に電気処刑されたとソ連の新聞『プラウダ』紙に書く。
戦後この記事の存在はなかったことにされた。
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1945年 3月31日
アンネ・フランク、チフスで死亡
1945年
4月28日 アドルフ・ヒトラー、エヴァ・ブラウンと結婚
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1945年 4月30日
15:30 ヒトラー夫妻 ベルリンの総統地下壕で自殺(青酸入りアンプルを口に含むと同時に愛用の拳銃(ワルサー社製 口径7.65mm)で自らの頭を撃ち抜いた)
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1945年 5月 7日
ドイツ降伏 (ベルリン陥落)
連合軍のリンチはドイツ軍の想像を遥かに超えたものであった。
戦後、収容所で死亡したドイツ兵の数は、1941年~1945年4月にかけての戦死者数を上回ったのである。
しかし、その事実が一般に公開されたのは戦後40年以上経ってからであった。
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参考資料:
「消えた百万人 ドイツ人捕虜収容所死のキャンプへの道」
著ジェームズ・バグー
序 文
ドクター・アーネスト・F・フィッシャー
アメリカ合衆国陸軍(退役)大佐
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1988年 バージニア州 アーリントンにて
1945年、西ヨーロッパ戦線は投降した何百万のドイツ兵で溢れた。
西部の大量投降と東部の必死の抵抗は、ドイツ軍最高司令官デーニッツの戦略だった。デーニッツは、一兵でも多くを人道的な取り扱いが期待できる、アイゼンハワー麾下の連合国軍に投降させようとしていた。
だが、その試みは絶望的な結果に終わった。
500万人をこえる捕虜は野ざらしで、立錐の余地もない鉄条網囲いに入れられ、最小限の食糧や衛生施設にも事欠いた。
1945年4月以降、仏軍の手にあったものも含めて、約100万人の捕虜が次々に命を落とした。
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1945年 5月21日
イギリス軍、ベルゲン・ベルゼン収容所を焼き討ち 有名な死体をブルドーザーが片付ける映像や酷い有様の収容所の映像は焼き討ち後にイギリス軍によって撮影された捏造映像である。
(1988年3月9日(水)カナダ・トロント裁判所にて弁護側証人ラッセル・バートン博士の証言より)
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1948年8月9日
イギリス、ベルゲン・ベルゼン収容所での自作自演フィルムをナチの戦争犯罪の証拠として公開
1948年夏
アメリカ下院非米活動委員会において、E・ベントレーとW・チェンバース(いずれも元米国共産党員)は、米国共産党(コミンテルン米国支部)やアメリカ非公然組織長のイクサ・アフメーロフ(ソ連人民委員部)、ボリス・バイコフ大佐(ソ連赤軍第四部)が、アメリカ政府内に構築したソ連諜報網の全容を告発し、ホワイトがソ連のスパイであることを指摘した。
ホワイトは公聴会でソ連スパイ疑惑を否定するが、8月16日、ジギタリスを大量服用し不可解な死を遂げる。
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1951年5月3日
GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥、米国上院軍事外交共同委員会にて「彼ら(日本の戦争指導者)が戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と発言。
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1953年11月11日
Drマックス・ナッサーブラウン(ベルリンのユダヤ宣教師)、「ユダヤ人が世界に占める立場は莫大な損失にも関わらず20年前よりも10倍も強くなった」と明記。(600万人は本当に死んだか?より)
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1975年4月
サイモン・ヴィーゼンタール、
著書「本と書斎人」に「ドイツ領には絶滅キャンプは設置されていなかった」と書く。
(マークウェーバー著「Simon Wiesenthal / Bogus "Nazi Hanter".」より)
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2003年 8月 12日
韓国外交通商部の丁相基(チョン・サンギ)アジア太平洋局長は日韓併合時代における強制徴用・徴兵の法的補償は終結したことを表明した
(朝鮮日報 2003.08.12(火) 12:58より)
(おわり)
itaiitai : 韓 - 興味津津だった.....面白い資料だった (03/15 14:46)
qkr9998 : 韓 - ドイツが日本よりましだということは彼らの謝罪する心を見れば分かる.ドイツを模範としなさい. (03/15 13:51)
zhongou : 日 - qkr9998>お前は盲目か; (03/15 14:05)
2004390 : 日 - ほんとですか?欧米ではこんな事はいえないよ。 (03/15 14:27)
これは本当だろうか?